君 ちょっと行ってくれないか
すてごまになってくれないか
いざこざにまきこまれて
泣いてくれないか
ブルーハーツに関しては中学生のころにハマって以来、必ず1年に2、3回どうしようも無く聞きたくなる期間がある。残念ながら当時集めた音源はほぼ全部実家に置いてきてしまったので、なかなかアルバム収録曲までは網羅できないので、しょうがなくyoutubeで有名な曲をいくつか聞いてみるのだが。それにしても年を重ねるごとに甲本ヒロトの歌詞の妙というか、絶妙な感覚を理解できるようになった気がする。当時は他にも中村一義とかTMGEとかくるりとかまぁそういう今では何とも言い難い音楽ばかり聞いていたのだが・・・
このように、今でも新鮮な気持ちで聞けるなんていうのはそんなに多くない、しかもそれは決してメランコリーに浸りたいからというわけでもないのだ。他にそういう音楽あるかな?と今考えてみたが、ブルーハーツほど耐用年数の高いものは思いつかなかった。
おそらく、音楽やその歌詞を人がどう思うかなんていうのは実際問題とても感覚的で、それで当時付き合ってた女の子と口論になったこともあった。「好きなものは好きなんだからあれこれ論じなくてもいいじゃない!」それは恐らく正しい。
実際この「すてごま」の歌詞を読んでみると各人の感覚でどうとも言えそうなイディオムに支配されている、これは恐らく自衛隊の海外派遣への皮肉の歌なのだ・・とか、全体主義的な社会に対するアンチテーゼなのだ・・とか。
そのようなことは私には何とも言えない、そうなんだろうと言えばそうだろうし、だがらと言って特にそれに面白さも感じない。
では何が面白いのかというと、「リフレイン」の妙である。「いざこざに巻き込まれて、泣いてくれないか?」この一文がとても深い。少し分析してみよう。
ref A)
すてごまになってくれないか? → いざこざに巻き込まれて → 泣いてくれないか?
「すてごま」というのは本歌詞の主題である、将棋やチェスにおいて、「大局での勝利の為にあえて死地へ送り込まれる駒」のことである。
何を言いたいかはお分かりであろう、つまり捨て駒とは「死ぬ」存在なのであって「泣く」存在ではないのであるからして、論理的な展開として捨て駒が泣くのは少しズレているのだ。
だから我々は恐らく無意識のうちに意外な気持ちに誘導される、「え?泣く程度で許しちゃうの?」と腑に落ちないし、流れに不安定感さを残したまま次の歌詞が始まる。
ref B)
すてごまになってくれないか? → いざこざに巻き込まれて → 死んでくれないか?
4回目の最後のリフレインは文章が「死ぬ」に修正される、ここで我々はやっと安心することが出来る、話が丸く収まった感覚を味わう。「あーやっと死んでくれた!」
この安定感を確固とするために甲本ヒロトはその後追加で何回も「死んでくれないか」を連呼する、先ほどまで言葉のロジックをぼやかされた分、カタルシスもひとしおである。
当たり前だが、何で行き成り「死ぬ」と言わないで「泣く」と言うかというと、その方が面白いからである。(全部「死んでくれないか」のリフレインだったらそんなに面白くなさそうだろう)
ところでクラシックの和声理論に、「偽終止」と「完全終止」というものがある。(実は昔少しだけ、音楽の専門学校に行ってたのです・・)
ギターが弾ける人なら何を言わんとするかはわかると思うが、普通、曲の終わりは曲の最初と同じ和音で終わるように出来ているのだ。例えばCコードで始まった場合Cコードで終わらないと「何か気持ち悪い」感覚が残る。
同様に、コード進行にも小説の起承転結と同様なものが大抵存在していて、Cコードの曲なら C→G→F→Cとまぁこのような分かりやすいルートを取る曲が構造的に多くなるのだ。
C→G→Fで曲が一時中断した場合、だから「ふんわりとしていて意外な気持ち」を与える。おおざっぱに言うとこれが「偽終止」であるわけだ、「しっくりと終わった感じがする」、「完全終止は」したがってここではC→G→Cである。
先のリフレインAとBも全く同じような構造でできている
A)すてごまになってくれないか? → いざこざに巻き込まれて → 泣いてくれないか? C→G→F 捨て駒 ≒ 泣く存在
B)すてごまになってくれないか? → いざこざに巻き込まれて → 死んでくれないか? C→G→C 捨て駒 =死ぬ存在
最後のリフレインのカタルシスは、長い寄り道をすればするほど気持ちよいので、クラシックの曲の終わり方は大抵とてもくどいものなのである。しかし甲本ヒロトもおそらくそういうバランス感覚を作詞の部分で強く持っていることがわかる。
死んでくれないか、死んでくれないか、死んでくれないか・・・と3回も言うという、必要なくどさである。歌詞の構造と音楽の構造はそういったわけでとても関連性があるという話でした。
このように、今でも新鮮な気持ちで聞けるなんていうのはそんなに多くない、しかもそれは決してメランコリーに浸りたいからというわけでもないのだ。他にそういう音楽あるかな?と今考えてみたが、ブルーハーツほど耐用年数の高いものは思いつかなかった。
おそらく、音楽やその歌詞を人がどう思うかなんていうのは実際問題とても感覚的で、それで当時付き合ってた女の子と口論になったこともあった。「好きなものは好きなんだからあれこれ論じなくてもいいじゃない!」それは恐らく正しい。
実際この「すてごま」の歌詞を読んでみると各人の感覚でどうとも言えそうなイディオムに支配されている、これは恐らく自衛隊の海外派遣への皮肉の歌なのだ・・とか、全体主義的な社会に対するアンチテーゼなのだ・・とか。
そのようなことは私には何とも言えない、そうなんだろうと言えばそうだろうし、だがらと言って特にそれに面白さも感じない。
では何が面白いのかというと、「リフレイン」の妙である。「いざこざに巻き込まれて、泣いてくれないか?」この一文がとても深い。少し分析してみよう。
ref A)
すてごまになってくれないか? → いざこざに巻き込まれて → 泣いてくれないか?
「すてごま」というのは本歌詞の主題である、将棋やチェスにおいて、「大局での勝利の為にあえて死地へ送り込まれる駒」のことである。
何を言いたいかはお分かりであろう、つまり捨て駒とは「死ぬ」存在なのであって「泣く」存在ではないのであるからして、論理的な展開として捨て駒が泣くのは少しズレているのだ。
だから我々は恐らく無意識のうちに意外な気持ちに誘導される、「え?泣く程度で許しちゃうの?」と腑に落ちないし、流れに不安定感さを残したまま次の歌詞が始まる。
ref B)
すてごまになってくれないか? → いざこざに巻き込まれて → 死んでくれないか?
4回目の最後のリフレインは文章が「死ぬ」に修正される、ここで我々はやっと安心することが出来る、話が丸く収まった感覚を味わう。「あーやっと死んでくれた!」
この安定感を確固とするために甲本ヒロトはその後追加で何回も「死んでくれないか」を連呼する、先ほどまで言葉のロジックをぼやかされた分、カタルシスもひとしおである。
当たり前だが、何で行き成り「死ぬ」と言わないで「泣く」と言うかというと、その方が面白いからである。(全部「死んでくれないか」のリフレインだったらそんなに面白くなさそうだろう)
ところでクラシックの和声理論に、「偽終止」と「完全終止」というものがある。(実は昔少しだけ、音楽の専門学校に行ってたのです・・)
ギターが弾ける人なら何を言わんとするかはわかると思うが、普通、曲の終わりは曲の最初と同じ和音で終わるように出来ているのだ。例えばCコードで始まった場合Cコードで終わらないと「何か気持ち悪い」感覚が残る。
同様に、コード進行にも小説の起承転結と同様なものが大抵存在していて、Cコードの曲なら C→G→F→Cとまぁこのような分かりやすいルートを取る曲が構造的に多くなるのだ。
C→G→Fで曲が一時中断した場合、だから「ふんわりとしていて意外な気持ち」を与える。おおざっぱに言うとこれが「偽終止」であるわけだ、「しっくりと終わった感じがする」、「完全終止は」したがってここではC→G→Cである。
先のリフレインAとBも全く同じような構造でできている
A)すてごまになってくれないか? → いざこざに巻き込まれて → 泣いてくれないか? C→G→F 捨て駒 ≒ 泣く存在
B)すてごまになってくれないか? → いざこざに巻き込まれて → 死んでくれないか? C→G→C 捨て駒 =死ぬ存在
最後のリフレインのカタルシスは、長い寄り道をすればするほど気持ちよいので、クラシックの曲の終わり方は大抵とてもくどいものなのである。しかし甲本ヒロトもおそらくそういうバランス感覚を作詞の部分で強く持っていることがわかる。
死んでくれないか、死んでくれないか、死んでくれないか・・・と3回も言うという、必要なくどさである。歌詞の構造と音楽の構造はそういったわけでとても関連性があるという話でした。