2014年4月14日

Vocaloidと速度の問題


「キャラクター: 初音ミク  
プロフィール: 年齢:16歳  身長:158cm  体重:42kg
得意なジャンル: アイドルポップス/ダンス系ポップス
得意なテンポ: 70~150BPM
得意な音域: A3~E5 」
(クリプトン・フューチャー・メディア VOCALOID2 初音ミク(HATSUNE MIKU)のプロフィール欄より)


概要


Vocaloidの歴史は、DTMというかなり小さいマーケットに登場した発展的なシンセサイザーが、ラノベのカバーイラストを描く仕事を主にしていたイラストレーターが書いたあるキャッチーなカバー絵と出会った瞬間にはじまった。有名なことだが初音ミク以前にもクリプトン社はMEIKOとKAITOというほぼ同様のコンセプトの商品を販売している。しかしどちらもニッチな業界のマイナーソフトという枠を超えることは無く、ひっそりとDTMマガジンやサンレコの片隅に広告が載る程度でしかなかった。当時これらの雑誌か音屋(※1)のカタログぐらいしか家に印刷物が無かったほどDTMにどっぷりだった私にも、Vocaloidが何か進歩的な物を生み出すなどとはこれっぽっちも予感していなかったのであるし、そもそもあまり興味も無かった。
そんな私であるので、何故初音ミクがこんなに人気になったのか、その意義はどこにあるのか?といった根本的な疑問は今でも私の中では、全くと言っていいほど解決しなままであり、しかもそれに言及しても誰かの後追いの感を拭い切れない感じもするので抵抗もある。したがってその点にはあまり言及はするつもりはないが、少なくとも技術的なシンセサイザーとしての一面とキャラクターが生み出す世界観の一面が合わさって出来ているのだという基本的な理解だけは忘れることは無いようにしようと思う。これはただのシンセサイザーでは無いが、単純なキャラクター商品でもないのである。

また既にVocaloid、或は初音ミクを論じている論考は、学識的な論文としても、個人のBlog上のコラムとしても無数に存在している。その内のいくつかはあくまでニコニコ動画上のムーブメントを外部から客観的に捉えているだけで、必ずしもその当時にリアルタイムで夢中になっていた人々の視点でによるものではないので、その内部で活動していた人々の考えとは少し温度差があり、しばし批判の対象ともなった。先にも言ったように、私は、遅れて聞き始めた1人に過ぎない。また音楽それ自体の価値を常に考えたいと思っているので、音楽ジャンルの中でVocaloidだけに特別思い入れがあるわけでもなく、よって全てのVocaloid関連の音楽が良い・好きであると思っているわけでもない。しかし少なくともこの3年間ほどの間、どんな音楽ジャンルよりも夢中になったのはVocaloid関連の音楽である。私自身も(もう既に過去の話だが)些末なDTMの一ユーザーとして優れた打ち込みのテクニックを有するプロデューサー(作曲者)たちに心から憧れたし、2次元キャラも大好きである。唯一後悔していることと言えば、私が聞き始めた時には既にその盛り上がりがひと段落してしまったことである、それは2011年の大震災の直ぐ後のころであった。
この文章では、2011年をムーブメントの一つのピークが終わった時期として定義している、もちろんそれが意味することは、何かの価値がVocaloidから失われたということではなく、また何かが終わったわけでもない、つまりただの区切りである。例えるならジャンプの連載漫画における「第一章完」やドラゴンボールで言う亀仙人の「もうちっとだけ続くんじゃ」のようなものである。どうして2007-2011という時期が第一章として選ばれたかの理由に関しては、最後のあとがきで説明したいと思う。



得意なテンポと開発のジレンマ (~2007)



クラプトン・フューチャー・メディアのサイト上にあるとおり、初音ミクには開発段階から70-150bpmという歌わせるのに理想的な楽曲のテンポが設定されていた。これはいくつかの作品を聞いた後の我々にはとても奇妙なことである(ちなみに初期のヒット作であり、ニコニコ動画の初音ミク関連で最大再生数を誇る楽曲「みくみくにしてあげる♪」は推定160bpmである)。何故現実には存在しない機械の歌い手に理想的な楽曲のテンポが指定されなくてはいけなかったのだろうか?技術的な限界によって早口で歌わせるとどう頑張っても許容できないほどの違和感が出てしまうのであろうか・・・?もちろん答えは、NOであることは、先のようなニコニコ動画上にアップロードされた有名曲達がすでに示した通りである。したがってシンセサイザーの世界では、こういった開発者側から提示される推奨使用法というものは、常にユーザー側の実際の使用方法と少なからずズレているのである。そういった事実は開発現場の側にとってもジレンマを感じる部分であろうことは想像に難くない。

YAMAHAの往年の名シンセサイザー、FM音源のDX7は非整数次倍音という何とも凄そうな技術を駆使することでありとあらゆる音を再現できるというコンセプトで販売された。このようなデジタル・シンセサイザーには内臓メモリーにあらかじめ登録されているいくつかのプリセット音源があり、これらはエレピだったり、バイオリンと銘打たれているものである。しかし実際に、楽曲に合わせてみても、それらはせいぜい少し雰囲気が出る程度にチューンされた音色であり、実際の使用には、かなり力不足であった。したがってユーザー達もそのようなプリセット音は始めから無かったかのように、各自思い思いの「自分のバイオリン」、「自分のエレキギター」、あるいは「ゴジラのテーマの何分何十秒に1瞬だけ鳴るあの音」なんてものを一からプログラミングして作り出すことに熱中した。故にDX7という楽器の真の魅力というのは、こういった自由度であろうと言えるだろうし、またそれを使いこなすということは、この場合、試行錯誤してプログラミングを打つことであった。
また逆に、シンセサイザーにおける、プリセットというものは、開発側の「予想」した使用法が、申し訳程度に主張されているだけで、先の言った、楽器そのものの抽象的な活用可能性の最大範囲とは、全く関係しないのであろう。だがしかし「出発点」という意味では、これらも一つの役割を担ったのも確かであろう。もしプリセットのエレピに満足がいかなかったら、何よりもまず始めに、それより良いエレピを作ろうと思うのが人間心理であり、それが、「ゴジラの音」にたどり着くのはまたずいぶん後の話だ。

ともかく、技術者側とそれを使いこなすプロミュージシャンの意向の乖離はシンセサイザーの世界では常にあったので、YAMAHAは後年MOTIFを開発する際にはDX7のへヴィーユーザーを数人、客員アドバイザーとして採用したりもした。シンセサイザーの世界ではユーザーの使い方にその機械の全ての価値は委ねられているのだ。当時、DX7を使いこなしたのはアナログシンセ時代からの筋金入りのプロ達であったが、もちろん初音ミクの場合はそれがニコニコ動画にいるアマチュアミュージシャン達であったという点が少し異なる。
ここにおいて、70-150bpmという公式が推奨する設定の持つ意味は、したがって開発者側の「予想」から演繹的に設定されたということは想像に難くない。言い換えるならば、彼らは、Vocaloidに現実の歌い手の不在を埋める代用という役割のみを予想していたのである。故に得意なジャンルというのも設定されており、「アイドルポップスやダンス系のポップスが作りたいクリエイター達が歌い手を確保できなかった時は初音ミクを買って使ってくれるだろう。」といった感じの販売予想がありえたのである。
なんてことはない、実は70-150bpmという設定は彼女に模倣されるべき、現実の人間の歌手に適切なテンポだったのだ。そして実際には、「初音ミクが人間の歌手の代用で使用される」という予想は完璧に裏切られたのを我々は知っている。Meiko、Kaitoから続いた販売戦略の必然さに、一石を投じるきっかけになったのは、ソフトウェアが内包する仕様の方ではなく、箱絵のキャラクターが偶然に生み出した豊かな世界観の方であった。



あまりに人間的なうた (2007~11)


初音ミクの初期ヒット作のほとんどは、彼女の技術的な制限に関わる部分を、内面を表すイメージとして分かりやすい形で表現するものであった。例えば、2007年09月13日にアップロードされた、楽曲「恋スルVOC@LOID」の中で描かれている初音ミクはDAWソフト(コンピューター上で音楽を作る際に使われるソフトウェアの総称)の中で立ち上がる一つのソフト・シンセサイザーという立ち位置を忠実に守っている。この時点では、まだ初音ミクは、今のような、オリジナルな衣装を着て楽曲に合わせて活発に踊りまわったりするアイドルではなく、音楽ソフトの中で自在に声を操る「人格を伴った」ソフトウェアでしかないのである。よって、この曲の中で彼女が特に望むことといえば、DTMのユーザー達が真剣にパラメーターを調整してくれることだったり、あまりにも歌うのに苦しい高音は入力しないで欲しいという、ソフトウェア上の仕様に直接関係したことであった。

「みっくみくにしてあげる♪」にも、「あのね早くパソコンに入れて欲しいな」という、だいぶメタな歌詞があり、SF小説の中に登場するAIと同様のタイプの人間/機械間の狭間で揺れ動く葛藤を常に心理描写の中にはらんでいるのがわかる。例えば歌いだしの「科学の限界を超えて私はきたんだよ」というのは、科学がいくら発展しても現実の人間を作り出すことは不可能だが、私はそれを超えて来た。という意味に解釈できる。言うなれば、これは初音ミクの人間宣言なのである。

2007年の後半から2008年の前半までは、「みくみくにしてあげる♪」や「恋するVOC@LOID」などの初期の作品が与えたイメージが、より拡大的に発展した期間であった。そこでは、仮想人格を持つソフト・シンセサイザーを表現する歌詞だけではなく、もっとより「身近にいる具体的な人物」としてのキャラクター性が与えられるようになった。人間の方へ、より人間に近い人物のイメージへと楽曲の演出も変化していく。
しかし当時、恥ずかしながら、かなり冷ややかな目線でVocaloidの起こしたムーブメントを見ていた私は「なんだ、曲がいくら凄くても、ソフトウェア自体の発声部分がまるで機械にしか聞こえないのは変わらないじゃないか」と思っていた。、このころになると初音ミクのキャラクター性とVocaloidの技術的限界の主従関係は逆転しており、はじめはVocaloidのスペックの高さにユーザーの方がついていけなかったのが、時が経つほどに玄人も増え、プロミュージシャンの参入も多くなっていくことにより、ついには平均的な楽曲のレベルの方が上回ってしまったのである。例えるならば、機動戦士ガンダムで、初期はガンダムの性能の高さをアムロは持て余したが、後半になってくると十分に技量を上げたアムロの操作スピードに今度はガンダムの反応速度の方が遅れてしまうようになってしまったような感じだ。ユーザーの技量が上がり、より人間に似せることはできるようになったが、完全にそれ自体にはなれないジレンマを感じはじめた時期である、しかしこの問題はすぐに解決することになる。

人間の代用として生まれたVocaloidが技術的な意味でその枠を超えたのは、ユーザーが完璧にプロの歌い手の発声をエミュレートできるようになった時では無く、普通の人間には歌えない速度で使用し始めた時であった。超高速のラップや早口を1語1句漏らさずに正確にこなせるという、機械本来の最大メリットを生かす楽曲にVocaloidが出会った時、我々はもはやそれに人間の代用という必要性を求めなくなった。
例えば、楽曲「初音ミクの消失 long version」の中では、初音ミクはむき出しのAIであり、制御の不安定さが超高速のリリックとして表現されている、その歌は抑揚を含んだものであるよりかはむしろ平坦で無機質なイメージであるが、他方で歌詞の表す心情はとても人間的なので、情景はアンビバレントである。

この曲のコンセプトは、「Bpm240で繰り出される最高速、最高圧縮の別れの歌」であるが、この曲については、音楽批評家佐々木敦がミュージシャン渋谷慶一郎のヴォーカロイドオペラ「THE END」へ捧げた論考に詳しく書かれているので正確な考察はそちらにまかせたい。以下に少しだけ引用する。

「BPM240というのが何を意味しているのかといえば、要するに生身の人間には歌えない、ということである。そしてこの曲の歌詞の内容は、このことと直接的に関係している。」(1)

言うなれば、この曲の歌い出し、「僕は生まれそして気付く、所詮人の真似ごとだと」というのは、何か偶然に生まれた歌詞ではなく、Vocaloid開発段階からのジレンマを想起させる上でも初音ミクの存在の必然を表現しているように聞えるのだ。こういった、「もう機械でも大丈夫、むしろ機械的な声が人間らしい歌詞を歌うからいいんだ」というアイデアは、クリエイター側にとっては楽曲上でVocaloidらしさを発揮する際の黄金律となり、ファン側にとっては、音楽世界の耳を広げる結果となった。

あくまで傾向ではあるが、Vocaloidの楽曲は非常に高速なものが多い。
「ぽっぴっぽー」150bpm
「炉心融解」165bpm


速度の問題は何処から来たか?(~2011)



今回、Vocaloidを「速度」というテーマ(それも、遅さではなく速さの方)に絞って、書いたのには理由がある。それは機械制御の音楽は、その能力を発揮する上で、人間の得意とする範囲を超えることによってその真価を発揮するのではないか?という先に書いた理由に基づく。
その一端を担ったのはDAWソフトなどのDTM界隈の技術的進歩である。例えばグリッチのような、音声を刻んで連続で鳴らすテクニックも、オートチューンのように人間の歌手の物理的な限界を技術で何とかしてしまうようなことも今では非常に簡単にできる。非常に簡単に出来るからこそ、皆こぞって使うようになる。高速な楽曲もDAWソフトのテンポバーを少しいじれば簡単に出来る。ならば、楽曲はどれもこれも高速化する。
アニメ「らき☆すた」のOPテーマはそういう意味でも、人間が歌うには一苦労な「速い楽曲」というコンセプトを先取りするものであった。この楽曲「もってけ!セーラーふく」は初音ミクの発売より3か月早く登場し、アニメの方のヒットに比例するように多くの人々が聞いた。私も一時期隠れてこの曲をカラオケで歌えるように練習したが、いかんせんこの速さとラップ部分の歌詞の「無秩序さ」のせいで非常に難しい。(※参考 異常な速度のベースライン:http://www.youtube.com/watch?v=C7jl-lwj-ZA)
この曲の歌詞の意味は、非常に無秩序ではあるが、それでも「何かどこかのラップで聞いたことのあるような韻の踏み方」を想起させる部分もあるので全くつかみどころが無いわけでもない。例えば「曖昧、3cm」というのも英語のIとmyとsomethingをなんとなく日本語の空耳的に再構成したように聞えたり、2番の歌詞に少し出てくる「チョップ・チョップ・キック」という部分も、PSソフト「パラッパラッパー」の1面の玉ねぎ先生のリリックの影響を感じる。
もちろん、こういったことは、やはりどこまで分析しても「こじつけ」にしか過ぎないだろうと思われるかもしれないし、それに反論も出来ない。しかし私の無意識下にあった、「楽しいラップ」、「ポップなラップ」という経験的なイメージに「もってけ!セーラーふく」の良さはかなりマッチする。
とりあえず、この楽曲がエポックメイキングであるためには、「速いラップ」は非常に大きな役割を果たしたのだ。

楽曲「初音ミクの暴走」と「裏表ラバーズ」はそれぞれ全く違うやりかたで、「もってけ!セーラーふく」が示したような「速いラップ」というコンセプトの正しさを我々に証明して見せた。
【ニコニコ動画】ボーカロイドにオリ曲を喋ってもらった1 「初音ミクの暴走」

【ニコニコ動画】初音ミク オリジナル曲 「裏表ラバーズ」

ニコニコ動画には、一方で「歌ってみた」というまた別の世界の価値を見出したジャンルの動画もある。これらの中ではまずVocaloidが我々に難しい曲を完璧に歌い上げるというお手本を示し、彼女のリリックに憧れた人間の歌い手が彼女に近づけるように練習し、「歌ってみた」としてアップロードする。したがってこの時点で、人間の歌手とそれの模倣としての機械の歌い手という主従関係は完全に逆転しているのである。

主従関係の逆転という意味では、先に挙げた「初音ミクの消失 longversion」と小林オニキス氏の「サイハテ」の心象イメージの好対照さが面白い。
初音ミクの消失は先に説明した通り、主人である「作曲者」よりも早く、初音ミクの方が「機械」の耐用年数や仕様限界にぶつかって消滅してしまうストーリーであった。他方「サイハテ」では、「大事な人が死んで、それを送るミク」というストーリなので、映像の中で初音ミクは喪服を着ている。何が起こっているかというと、機械には肉体的な限界点=物理的な死が無いので、彼女より我々の方が先に寿命を迎えてしまうというノスタルジーである。全ての生きとし生けるものは動画「サイハテ」にその死を弔われてしまう可能性が動画が存在する限り未来永劫残るのだ。
【ニコニコ動画】【初音ミク】 サイハテ 【アニメ風PV・オリジナル曲】
まとめに入ろう、速度の問題は、正確に言うと「機械」のスペックが、制限無く速いものを表現できるという、技術的側面から現れた必然的な結果である。それが引き起こした結果は、こんどは「人間」の方が「機械」に追いつけるように鍛錬するようになったという流れである。
ニコニコ動画でCivilization4というゲームの実況で有名なスパ帝氏は彼の「ゲーム2.0」論の中で、現在存在する様々なソーシャルゲームは「時間通り」に機械の指示通りに動く現代社会の必要性の写し鏡のように存在しており、それらには暗に、社会を維持するためにロボットワーカーを育成する役割が与えられていると言った。勘違いして欲しくないのだが、これは決して、一方的なソーシャルゲームへの批判ではない。
例えば日常的にソーシャルゲームのような「遅刻・遅延厳禁」のゲームに慣れた我々は、実際の社会で遅刻をとがめられた際に、何故それがよくないことなのかが直観的に理解できる。「電車でGO!」でも現実のJRの早朝ラッシュでも、電車の運転手がブレーキを引くタイミングを逃せば大変なことになるのは同様なのである。
そしてVocaloidの曲に影響されて高速なリリックを「歌ってみた」歌い手たちは、「機械」に憧れて、その速度に対応できるようになった「人間」である。このタイプのディストピアは60年代のSF小説でよく否定的な未来像として現れる。しかし現実に現れはじめたこういった文化は必ずしも批判すべき社会の暗部では無いことは現在の我々には容易に理解できるのではないだろうか?ビート・マニアやダンスダンスレヴォリューションで複雑な音譜を指定された通り完璧に演奏できるようになった人々の前に待っているのはオーディエンスの喝采であるし、他方もってけ!セーラーふくのカラオケでの再生回数が非常に高いことからも、ここに何か憧れがあるのだというのはわかる。そして実際にそれに向かって努力してみることは非常に楽しい、本能的に「楽しい」こと侮るなかれ、である。

あとがき (2011~)


繰り返しになるが、Vocaloid初音ミクは技術的なスペックの集合体としての「ソフトウェア」と発展する世界観が作り出した「具体的な人物」のイメージの間にその天性があった。初期は主にソフトウェアの物理的仕様が彼女の人間性を牽引したが、その後すぐに、世界観の方が物理的限界を解放する流れに変わった。しかしその後はどうなったのだろうか?
先に説明したシンセサイザーDX7は、どんなに精巧なプログラミングを作り出しても、FM音源に特有な「ギラギラした音」「荒削りな音」の枠を超えることが出来なかったので、時代を経てミュージシャン達に飽きられてしまった時に終焉が来てしまった、今それらの楽曲を聞きなおしてみても「いかにも80年代的な音」という印象を拭い去ることはできない。しかし初音ミクの場合はそうではない、彼女には無限の可能性を持つ世界観があるので簡単には古ぼけないのである。だが初音ミク特有のキャラクター性というものが食傷気味になるということはありえるのではないか?
ネギを持ったAI初音ミクというパブリックイメージが完全にピークを迎えたのは2011年であった、そのきっかけが何だったのかは分からない、3.11が我々を別の視点へ向けるようにしたのかもしれないし、単純にそれらの楽曲の歌詞のネタが尽きたのしれない。これに何か確実なことは言えない。
しかし2011年以降確実にVocaloidの楽曲の意味は変わったのは事実である。「千本桜」や「カゲロウデイズ」の中には先ほどまでの楽曲のような「初音ミクの必然性」に関係する単語やフレーズも必然性を伴うコンセプトはない、ここでは主に作曲者が独自に作り上げた世界観に合わせて「初音ミク」が歌っているのだ。これは決してこれらの楽曲に対する非難ではない、初音ミクという「ブランド」はこの時点で既に独立した価値を持っているのでそれを使用することが自然になったのならば、それには何の問題もないはずなのだ。
新しく現れた作者達が、人間の代わりとして思い思いの歌詞を歌わせるというのは、それこそ一番最初に初音ミクが開発された時のコンセプトではなかったか?これらに言えることは、決して初音ミクの死ではなく、一般化だと言えるだろう。例えばロックの歴史は、はじめはいくつもの伝説的なミュージシャンだけのものだったが、時代を経て徐々にどんなジャンルにも対応できるようになるという一般化の後に、現在では誰にも受け入れられるものとなったのであるし、ジャズも今ではもっぱらカフェで聞くものになった。初音ミクもそういった音楽ジャンルと同じ展開を見せただけで、その変化には何の不思議もない。この時点に到着してはじめて我々は客観的にVocaloidのムーブメントの価値を見ることが出来るようになったのだから、それは「初音ミクの消失」で描かれた「悲しい結末」とは少し異なるはずだ。

※1 サウンドハウス http://www.soundhouse.co.jp/

引用
(1)「アルテスVOL.04」2013 Spring, アルテスパブリッシング, 佐々木敦「生物でも死者でもゾンビでもない物」 p.11 ll.3-5

2013年12月3日

ブルーハーツ「すてごま」における、歌詞の偽終止的用法




君 ちょっと行ってくれないか
すてごまになってくれないか
いざこざにまきこまれて
泣いてくれないか


ブルーハーツに関しては中学生のころにハマって以来、必ず1年に2、3回どうしようも無く聞きたくなる期間がある。残念ながら当時集めた音源はほぼ全部実家に置いてきてしまったので、なかなかアルバム収録曲までは網羅できないので、しょうがなくyoutubeで有名な曲をいくつか聞いてみるのだが。それにしても年を重ねるごとに甲本ヒロトの歌詞の妙というか、絶妙な感覚を理解できるようになった気がする。当時は他にも中村一義とかTMGEとかくるりとかまぁそういう今では何とも言い難い音楽ばかり聞いていたのだが・・・

このように、今でも新鮮な気持ちで聞けるなんていうのはそんなに多くない、しかもそれは決してメランコリーに浸りたいからというわけでもないのだ。他にそういう音楽あるかな?と今考えてみたが、ブルーハーツほど耐用年数の高いものは思いつかなかった。

おそらく、音楽やその歌詞を人がどう思うかなんていうのは実際問題とても感覚的で、それで当時付き合ってた女の子と口論になったこともあった。「好きなものは好きなんだからあれこれ論じなくてもいいじゃない!」それは恐らく正しい。
実際この「すてごま」の歌詞を読んでみると各人の感覚でどうとも言えそうなイディオムに支配されている、これは恐らく自衛隊の海外派遣への皮肉の歌なのだ・・とか、全体主義的な社会に対するアンチテーゼなのだ・・とか。
そのようなことは私には何とも言えない、そうなんだろうと言えばそうだろうし、だがらと言って特にそれに面白さも感じない。
では何が面白いのかというと、「リフレイン」の妙である。「いざこざに巻き込まれて、泣いてくれないか?」この一文がとても深い。少し分析してみよう。

ref A)
すてごまになってくれないか? → いざこざに巻き込まれて → 泣いてくれないか? 

「すてごま」というのは本歌詞の主題である、将棋やチェスにおいて、「大局での勝利の為にあえて死地へ送り込まれる駒」のことである。
何を言いたいかはお分かりであろう、つまり捨て駒とは「死ぬ」存在なのであって「泣く」存在ではないのであるからして、論理的な展開として捨て駒が泣くのは少しズレているのだ。
だから我々は恐らく無意識のうちに意外な気持ちに誘導される、「え?泣く程度で許しちゃうの?」と腑に落ちないし、流れに不安定感さを残したまま次の歌詞が始まる。

ref B)
すてごまになってくれないか? → いざこざに巻き込まれて → 死んでくれないか?

4回目の最後のリフレインは文章が「死ぬ」に修正される、ここで我々はやっと安心することが出来る、話が丸く収まった感覚を味わう。「あーやっと死んでくれた!」
この安定感を確固とするために甲本ヒロトはその後追加で何回も「死んでくれないか」を連呼する、先ほどまで言葉のロジックをぼやかされた分、カタルシスもひとしおである。
当たり前だが、何で行き成り「死ぬ」と言わないで「泣く」と言うかというと、その方が面白いからである。(全部「死んでくれないか」のリフレインだったらそんなに面白くなさそうだろう)

ところでクラシックの和声理論に、「偽終止」と「完全終止」というものがある。(実は昔少しだけ、音楽の専門学校に行ってたのです・・)
ギターが弾ける人なら何を言わんとするかはわかると思うが、普通、曲の終わりは曲の最初と同じ和音で終わるように出来ているのだ。例えばCコードで始まった場合Cコードで終わらないと「何か気持ち悪い」感覚が残る。
同様に、コード進行にも小説の起承転結と同様なものが大抵存在していて、Cコードの曲なら C→G→F→Cとまぁこのような分かりやすいルートを取る曲が構造的に多くなるのだ。
C→G→Fで曲が一時中断した場合、だから「ふんわりとしていて意外な気持ち」を与える。おおざっぱに言うとこれが「偽終止」であるわけだ、「しっくりと終わった感じがする」、「完全終止は」したがってここではC→G→Cである。

先のリフレインAとBも全く同じような構造でできている
A)すてごまになってくれないか? → いざこざに巻き込まれて → 泣いてくれないか? C→G→F 捨て駒 ≒ 泣く存在

B)すてごまになってくれないか? → いざこざに巻き込まれて → 死んでくれないか? C→G→C 捨て駒 =死ぬ存在


最後のリフレインのカタルシスは、長い寄り道をすればするほど気持ちよいので、クラシックの曲の終わり方は大抵とてもくどいものなのである。しかし甲本ヒロトもおそらくそういうバランス感覚を作詞の部分で強く持っていることがわかる。
死んでくれないか、死んでくれないか、死んでくれないか・・・と3回も言うという、必要なくどさである。歌詞の構造と音楽の構造はそういったわけでとても関連性があるという話でした。

2012年10月1日

移住費

なんだかんだで、フランスに移住して早いこと1ヶ月が経ち、大学にも馴染みつつある。
しかしこれまでの手続きのなんと大変だったことか

日本での数ヶ月に渡る、キャンパスフランスとの格闘の末、履歴書と志望動機の提出から大学の受け入れ許可を得るに至り、なお日本のフランス大使館にて学生ビザ習得の一悶着を終え、やっとのことで辿り着いた先ではあまり親切とは言えない大学への召集案内(9月5日から10月中盤までに大学の在位登録を完了してくださいとあったので、早くとも学期が始まるのは9月の終わりだろうと高を括っていたら、初回が9月2週目から開始し、留学生はおろかフランス人の生徒も授業があることに気がつかず初回の出席はたったの6人)を十分に理解し、アパートを借りたり、移民届けを出したり、銀行を開けたり住宅・学生保険に入ったりと、やることが山済みどころの騒ぎではなかった
(当然フランス語の能力も、並行してレベルアップしていかなくてはならなかった)

残念ながら、日本の大学など高等教育機関に在籍したことが無いので、日本の機関との比較などは出来ないとしても、これから思いつくことがあったら書き足して行きたいと思う。

ちなみに登録料(授業料)はとても安い。(学士なら年間177€ほど)
一年間トータルの生活費も我が港町、ブレストが発行するパンフレットに書いてある基準値と合わせて計算してみた
http://www.univ-brest.fr/Zoom_sur//Guide_de_bienvenue_a_Brest.cid33147

食費 220€
(大学のレストランの昼食が3€で、毎日通っている計算になっているので、もっと切り詰められるだろう)
交通費 27€
学用品 15€
交際費 40€
その他(服飾、通信料など)50€
トータル 360€/月
年間4320€

家賃 320€-補助金(CAF)約100€
2640€

大学登録料 177€´
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7137€ 現在のレートで約71万円
(別途に日本からの飛行機代や現地への移動費もかかる)

それに対し、日本大学文理学部哲学科の初年度納入金額は108万円である。
いかにフランスでの大学生活が安いか、というか日本が高いかがわかる
(パリなど大都市だと物価は高い)

2011年10月2日

a

今日、哲学の問題は極論すると二つである
一方は総体としての世界をどうにかして定義しようとする試みであり、他方は自己の行動理念の分解可能な最小の単位を定義する試みである。

あとの問題は上の定義の最新型から導き出せる問題か、専門分野としての哲学より、科学と批評の諸問題なのである。

2011年8月13日

長文を書くにはどうやら訓練が要るらしい。
人のことはまぁいい。文語の用法が技術であり、技術とは継承されるものだという点において
今すこし躓いた

2011年4月5日

恋の味覚は鉄の味

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